大判例

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大阪高等裁判所 昭和45年(ラ)64号 決定 1970年6月17日

抗告人 宮林正次(仮名)

被相続人 川端一郎(仮名)

主文

原審判を取り消す。

被相続人川端一郎の相続財産全部を抗告人に分与する。

理由

(抗告人の求める裁判)

主文同旨。

(抗告の理由)

1  民法九五八条ノ三は、相続人なき相続財産を国庫に帰属せしめるより被相続人と特別の縁故のある者に分与する方が被相続人の意思にも合致し、同家の財産管理の労を省いて適切ということから定められたもので、特別縁故者か否かの判断は裁判所の専権に任されている。同条は、特別縁故者を「被相続人と生計を同じくしていた者、被相続人の療養看護に努めた者その他被相続人と特別の縁故があつた者」と規定している。この前二者が例示であることは明らかだから、特別縁故者とは、抽象的な親族関係の遠近ではなく、具体的実質的な縁故の濃淡が判断の基準となるが、親族関係の遠近は、実質的な縁故の濃淡を判断する一資料になる。

2  宮林金太郎は、もと川端金太郎といい、川端家から宮林家に養子に迎えられた人で、その三女が被相続人の母もとである。川端家は、金太郎の妹の川端ふみが家督を相続し、兄の子であるもとを養女としたのでもとは川端もととなつた。一方抗告人も宮林金太郎の孫であるから、もとは叔母になり被相続人とは従兄弟である。

3  原審判は、抗告人が被相続人の葬儀や法要を行つたのみでは特別縁故者とはいえないとしているが、抗告人と被相続人との関係は、その葬儀や法要を行つたのみの関係ではない。

4  川端もとは、家督相続後、薬剤士の元信を婿養子として迎えたが、元信は酒癖が悪く入籍されないまま離縁となり、離縁後被相続人が生れたため被相続人は戸籍上私生子となつている。被相続人は出生の翌年祖父金太郎を失い、六歳にして母を失つた。川端家は○○○の製造販売という家業があり、金太郎の養家である宮林家の家業は○○○○業であつたが、金太郎は、娘のもとが家督を相続し家業に従事している川端家を屡々訪れ、家業を援助した。もとは、大正一三年頃には腎臓病で衰弱したので、もと川端家に女中奉公していた中村ナツを呼びよせ家事を手伝わせたが、もとは、その後死亡し、ナツが被相続人の乳母となり家事を担当し、家業は遠い親戚になる水沢宗助が○○新田から通勤してその衝に当つたが、抗告人もその家業を指導監督し、帳簿類は抗告人が毎月監査捺印し、金銭の出納を管理し、これは戦争で○○○の家業が廃止されるまで続いた。

5  抗告人の父母は、このように幼にして祖父や母を失つた被相続人を憐んで精神的援助を与え、京都に呼んだため、被相続人は、学校の休暇には抗告人方で過ごすことが多く、抗告人は年長の従兄として被相続人と親交し指導し励ましを与え、又川端家で営むべき法事や親戚間の交際にはその相談相手となり、又進学、就職についても保護者の立場で相談にのり、○○○○株式会社に入社する際も保証人身元引受人となつて、一切の責任をもつこととした。

6  抗告人方では父の勘助が大正八年八月一二日に祖父の金太郎が大正一二年一一月九日に死亡し、抗告人が家督を相続したので、中学を卒業して家業を継いだが、弟の三郎は被相続人の同年令で特に親しくし、抗告人は、一家の当主として被相続人を庇護した。被相続人の母のもとが死亡当時抗告人は○○○○の横にあつた花屋旅館を借り、大阪出張所とし店員一名を常駐させ、二、三の店員を出張させて仕事をさせていたのを廃止し、被相続人方店舗の一部を借受けて出張所とし使用料を払い店員を常駐させ、抗告人も度々赴き、電話は抗告人が架設し、費用一切を負担したが、被相続人にも無償で使用させた。

7  被相続人は、小学校から○○中学校を経て○○高商を卒業したが、その間の費用は、家業や家賃、抗告人の支払う賃料収入を以て充てられた。被相続人が○○高商を出て昭和一四年一月、○○○○に入社した際、抗告人は、身廻り品を贈つて門出を祝つた。被相続人は、昭和一五年○○駐在となつて出発し、水沢宗助も退職し、戦争拡大のため翌一六年被相続人方の家伝の秘法を企業統合の会社に譲渡して家業を廃止したが、抗告人方の出張所はそのまま存続した。抗告人は、○○○○株式会社に依頼し、被相続人の給料を会社で積立ててもらい、不動産収入の一部は中村ナツの給料にあて残りは抗告人が印章を保管し、銀行預金として中村ナツに保管された。第二次世界大戦勃発後の昭和一七年被相続人は、帰国して本社勤務となつたが、同年秋再びビルマの○○○○○勤務を命ぜられたので、抗告人に財産の管理等を依頼して出発した。抗告人の大阪出張所も統制経済のため昭和一八年に閉鎖するに至つたが、中村ナツも留守勝となり、抗告人が月二回位の割合でこれを検分した。昭和一九年になると中村ナツは帰郷し、借家も疎開のため全部空屋となつたが、抗告人は、毎月一回検分した。昭和二〇年三月一四日の空襲で被相続人方は焼け、土地は焼跡となつた。被相続人は、ビルマへ行つて後ただ一度の便りが届いたが、抗告人の発した便りが届いたかどうか不明で、その安否を気遣い引揚援護局等に照会したが昭和二二年戦死の公報が入つた。被相続人の従前の所有地は、昭和二一年連合国軍に接収されたので、抗告人は、被相続人の代理人として特別調達庁と土地の賃貸契約を結んだが、昭和二六年四月六日大阪市より○○○を作るため、換地予定地の指定をうけ、これが後に大阪市○区○○○△丁目○○○番の宅地二六〇・五九平方米と同町○丁目○○番宅地一四五・六一平方米となつた。これに対する○○銀行の評価は、現賃借人に売る場合は一平方米二万円、第三者に売る場合は一平方米一万七、四〇〇円である。この土地は、昭和二七年三月抗告人に必要でなく空地のままでは不法占拠される心配があり、固定資産税納付のためもあつて、大橋友一に賃料坪当り月額二〇円で賃貸した。

8  原審判は、抗告人は昭和二七年頃、土地を使用していた大橋友一の連絡で遺産の存在を知つたもので、抗告人主張のごとく被相続人が外地に赴くに際し財産管理等後事を託したのかどうか疑問であるとしているが、これは、事実誤認もしくは調査、審理不尽である。抗告人が被相続人の遺書を受領し戦死の公報を受けたこと、その葬儀を執行したこと遺骨を○○○寺の宮林家の墓地に納め法要を営んでいる(川端家の菩提寺は戦災に遭つたまま復興していない)のは事実であつて、将来もその霊を祭り、祭祀を執るものである。

以上の事実によれば、抗告人を被相続人の特別縁故者とするのは相当と考えられるので、抗告人の申立を却下した原審判を取り消し、更に相当なる審判を求めるため抗告に及んだ。

(当裁判所の判断)

本件記録並に大阪家庭裁判所昭和四四年(家)第二八四二号相続人捜索公告事件の記録によれば、被相続人川端一郎は、大正八年一月二三日川端もとの非嫡出子として出生し、○小学校、○○中学校を経て○○高商を卒業し、○○○○株式会社に就職し、○○に渡つたこと、間もなく第二次大戦が勃発し、同人は昭和一七年引揚船で帰国し、大阪の本社勤務となつたが、いくばくもなく再びビルマの○○○○○勤務を命ぜられて出発し、現地で召集を受け従軍中昭和二〇年七月二二日ビルマの○○○県で戦死し、昭和二二年一〇月二五日戦死の公報が入つたこと、一郎の母もとは、宮林金太郎の三女で大正三年川端ふみの養女となり、同九年一二月二八日ふみの死亡で家督を相続したこと、しかしもとも同一四年一〇月六日死亡し、被相続人一郎が家督を相続したこと、その時抗告人の父は既に亡く、一郎の叔父の本山嘉三が一郎の後見人となつたこと、抗告人も宮林金太郎の孫で大正八年八月一二日父勘助の死亡により家督を相続したもので、父はもとの兄で抗告人と一郎は従兄弟の関係にあること、被相続人の父は判然せず、祖父の金太郎は、被相続人が四歳の時に、母のもとも前記のごとく被相続人が六歳の時に死亡し、被相続人は身よりなき身となつたが、生家が秘伝の○○○の製造卸商で、母がこれを継承していたのと、土地貨家があつたため、乳母中村ナツが一郎を養育し、遠縁の水沢宗助が通勤で○○○業を営んでくれたので、そのまま生家で育つたこと、本山嘉三は、もとの直ぐ上の兄で一郎の後見人となつたが、他家へ養子に行つた身なので後見人としてどの程度一郎の監護養育に当つたか不明であり、一郎は経済的に困らなかつたため深く世話にはならなかつたらしいこと、むしろ抗告人方が実母もとの生家であり、金太郎の在世中は父、祖父として同人がもとや被相続人一郎と往来が劇しかつたであろうと想像されるし、金太郎死亡後は実父勘助早世のため早くから長男として家業の○○○○商を継いで一家を主宰していた抗告人が一郎と往来し、かつ早くから一郎の生家の一部を借り大阪出張所として店を張つていた事実もあつたため、一郎の進学、就職等の相談相手となり一郎が○○○○株式会社に就職した際は抗告人がその保証人、身元引受人となつたこと、被相続人一郎がビルマに渡航した後も抗告人は、引続き一郎方の一部を借りていたが戦争が劇しくなるとともに川端家の○○○製造、卸業は廃止され、前記中村ナツも水沢宗助も実家に帰り、抗告人のみが僅かに残つた財産の管理に当つたが、そのうち空襲のため一郎の生家も貸家も灰燼に帰し、財産として大阪市○区○○○△丁目○の○、○、○、と同○の土地合計一九六坪六合七勺のみが残つたこと、戦後この土地は、進駐軍接収のため大阪特別調達局に賃貸されたこと、その後この土地は大阪復興特別都市計画事業の区劃整理のため昭和二六年四月六日付で七四ブロック一五号の七八坪六合九勺と七五ブロック四号の四三坪七合九勺、合計一二二坪四合八勺に換地され、この換地が昭和二七年以来○○○○株式会社の店舗敷地として大橋友一に賃貸されて今日に到つていること、これらの賃貸手続には、すべて抗告人が一郎の名前を用い事実上の財産管理人として行つたこと、ところがなぜか、土地賃借人の大橋友一は、同人が土地を賃借するまで抗告人がこれを放置し固定資産税等を滞納させ処分される恐れがあつたというていること、被相続人の遺骨は、戦死後二年して内地に送還されて来たが、抗告人は、これを受領して葬儀、供養を営み、被相続人方の菩提寺が戦災で復興しないため、京都にある抗告人方の菩提寺に納骨し毎年命日には法要を営んでいること、被相続人の財産管理人として、昭和四一年一〇月二七日抗告人の妹の岩崎高子が相続管理人に選任され、同四二年六月九日相続債権者受遺者への申出催告をなし、同四四年四月二五日、相続人捜索の公告をしたが、いづれも所定の期日までに申出るものがなかつたこと、○○○○株式会社の方では抗告人を被相続人の遺族として取扱い種々の催しには抗告人と連絡していること、の各事実を認めることができる。従つて、前記のように大橋友一が、抗告人は、同人の知らせではじめてその土地の存在を知つたといい、それまではこれを放置して固定資産税の滞納で処分されようとしていた、といつているのは必ずしも真実とは認めがたい。

さて、民法九五八条ノ三は、相続人のない遺産を国庫に帰属せしめるよりは被相続人と特別縁故のある者に相続させた方が至当とする場合にはこれに分与するため、昭和三七年に追加規定されたもので、そこにある被相続人と生計を同じくしていた者、被相続人の療養看護に努めた者というのは例示であり、その他特別の縁故があつた者というのは、右の例示の程度に縁故のあつた者を指すということであれば、抗告人の出損労力によつて被相続人が育てられ、学費等を出してもらつたとかいう事実の証拠のない本件においては、抗告人を特別縁故者とすることはできないという解釈が成立つが、財産があつて特に被相続人が生前金銭的に世話を受けた事実がない場合でも幼少時より身近な親族としてたえず交際し、死亡後は葬儀、納骨、法要等遺族同様の世話を行ない、今後も被相続人の祭祀回向を怠らぬ意向である者もこれに含めた方が同条の立法の趣旨や故人の意思に合致すると推測され、これに異護を述べる者がない場合はこれを含めてよいと解されるところ、前記認定の事実によれば、抗告人と被相続人との関係は、右の場合に該当するといえるのであり、被相続人が再度外地に赴いた際抗告人に財産の管理を依頼して出発したという直接の証拠はないが、他にこれを管理したという人もなく、その管理を依頼して出発したものと推定できる本件においては、この事情をも含めて抗告人を以て民法九五八条ノ三にいう特別縁故者というを妨げないものというのを相当とする。

よつて、抗告人の本件申立は相当であるから、これを却下した原審判を取り消し、被相続人の遺産全部を抗告人に分与することとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 岡野幸之助 裁判官 宮本勝幸 菊地博)

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